水が打ちつけられて泡を成している水面の3態、各3枚ずつの写真が同型のパネルに仕立てられている。それらは、床、および地続きの壁面へ格子状に設置され、白い室内の一画を占めている。壁面には2面、水が砕ける水面のそれぞれ異なる2態の動画が投影されている。動きは遅く、動画というよりは連続した静止画によるコマ撮りアニメーションのように見える。
川辺で半日ぼんやり過ごし、日も暮れようという頃、水面をマクロレンズで撮影する気になった。現像してみると大小様々の凝集した粒態が写っていて目を奪われた。日を改めて今度は、速いシャッタースピードで動画を撮影した。編集の段階で要素を検討する内、速度は限界まで遅くなった。取り出されたものは移り変わる粒態で、静止画の連続だった。
風が渡る木々の眺めに心を奪われることが多い。もう何年も眺めてきていて、大量の撮影をしている。あるときそのうちの一つに”粒の”というタイトルをつけたことがあった。風に揺れる木々の枝葉の奥に、うごめく粒々が感じられないだろうか。
そこに身を置くことを続けることによって、じわじわと触覚から浸透してきて最初は見えなかったものや感じ取れなかったことが”わかる”ようになることは多い。ここまで”現実感”と表現してきたことは、”存在感覚”と言い直してよいように思う。単に息をしている以上の、たしかに自分がここに存在しているということを肯定することを可能とする程に集積したなにかは、ある時瞬間的に時空を濃くし、普段は感じられない”現実感”をわたしの生に被せる。”基視学”は、これまで長く西欧人文/社会科学で扱われてきた存在と認識についての問題意識を継承する。
これまでは、異なる印象の現象を複数持ち合わせ整理する過程で何事かを得ることをしてきたが、今回は1つの現象の異なる様態を整理することで試みた。写真(photograph)の語源は光(photo)による記述(graph)である。”時間”と呼んでいることの一端をごく大きくではあるが解体できたように思う。引き続き考察したい。水が打ちつけられて泡を成している水面の3態、各3枚ずつの写真が同型のパネルに仕立てられている。それらは、床、および地続きの壁面へ格子状に設置され、白い室内の一画を占めている。壁面には2面、水が砕ける水面のそれぞれ異なる2態の動画が投影されている。動きは遅く、動画というよりは連続した静止画によるコマ撮りアニメーションのように見える。
川辺で半日ぼんやり過ごし、日も暮れようという頃、水面をマクロレンズで撮影する気になった。現像してみると大小様々の凝集した粒態が写っていて目を奪われた。日を改めて今度は、速いシャッタースピードで動画を撮影した。編集の段階で要素を検討する内、速度は限界まで遅くなった。取り出されたものは移り変わる粒態で、静止画の連続だった。
風が渡る木々の眺めに心を奪われることが多い。もう何年も眺めてきていて、大量の撮影をしている。あるときそのうちの一つに”粒の”というタイトルをつけたことがあった。風に揺れる木々の枝葉の奥に、うごめく粒々が感じられないだろうか。
そこに身を置くことを続けることによって、じわじわと触覚から浸透してきて最初は見えなかったものや感じ取れなかったことが”わかる”ようになることは多い。ここまで”現実感”と表現してきたことは、”存在感覚”と言い直してよいように思う。単に息をしている以上の、たしかに自分がここに存在しているということを肯定することを可能とする程に集積したなにかは、ある時瞬間的に時空を濃くし、普段は感じられない”現実感”をわたしの生に被せる。”基視学”は、これまで長く西欧人文/社会科学で扱われてきた存在と認識についての問題意識を継承する。
これまでは、異なる印象の現象を複数持ち合わせ整理する過程で何事かを得ることをしてきたが、今回は1つの現象の異なる様態を整理することで試みた。写真(photograph)の語源は光(photo)による記述(graph)である。”時間”と呼んでいることの一端をごく大きくではあるが解体できたように思う。引き続き考察したい。