103号室 / feel; between S and A

_SDI0020薄暗い室内のある壁面中ほどには、2種類の水の流れあるいは充ちている液体の動きが階層で示される。双方には場所と日付、刻々と移ろいゆくその時刻が記されている。一方は速度が変化し、他方は方向が変化し、双方ループしている。一隅には、3方向に伸びるアルミのフレームに、木々の様態を捉えた静止画が5枚おさめられ、それぞれはそれぞれの方向を向いて散在し凝集している。天井は、大きく引き伸ばされたモノクロの惑星像で覆われている。

生の了解に必要なのは意味理由ではなく、感覚するわたしの正当性の保証とする。その上で、私がみているものは何か。私の関心を惹いたことはなにか、と問う。

例えば何かを捉えようとすることは、その何か以外を捉える可能性を失うことを意味しうるだろう。その結果が想像していたものと全く異なったものを得ることになったとしても、設計した結果を得るのではなく、損なわずにそこにあるものを得たいという思いが強い。設計するよりも、対象に寄り添い、道具としてのわたしの感度をあげてゆくことを行いたい。

領域を移動するわたしと、方向を形に携えてある木々がある。アートとしての写真は、質性の強調が行われ、何かの象徴として扱われ、絵画の代替物としての名残で、額装され壁面に飾られるのが常だが、ここでは採取した日付と場所を明示すること、絵画の代替物としての写真としてではなく、単にデータを2次元に投影したに過ぎない”表面”に、3次元を象徴するフレームをつけて採取された時空として配置される。得たものは環状の方向と層を成しぶれている空間の像だった。

閉じた空間の中である量が揺れている。かすかな角がたつ。それは畏怖の感覚を生じさせる。一定の力を加えると、方向とパターンが生じ、それは滑らかな快の感覚を生じさせる。要素の抽出と検討により、一方は速度を変化させ他方は方向を変化させループさせて双方をループさせるという結果を得た。わたしが移動することと時間が経過することとそれらを支える運動量がイコール。時間の逆行は方向の反転にすぎないように見える。時間の遅延は角の生じる間隔が広くなるのと同等に見える。

無人衛生が撮影した暗闇にくっきりと描画された正確な円弧とグラデーションからは、わたしが存在する空間のさらに外部があることをつきつけられその暗さと拡がりの大きさに恐怖をいだくと同時に、そこから続くわたしが存在する空間の存在も確信する。ここでは逆にオンラインで誰もが経験しうる像を拡大して面を覆うことで、外部の象徴として扱った。

経験をデータや概念や象徴へと近似/昇華せず、多量の視覚と感覚と少量の言語(論理)を介して、経験の情報量をなまのままに扱う、”サイエンスとアートの間”での反省と構築を試みている。このことは、大きく2つの意義があると考えたい。自然科学という方法が根源的に達成し得ない領域を耕すことに貢献できるかもしれない。さらに、言語にのみ依存しない特性を活かし、人文/社会科学では根源的に達成し得ない領域を耕すことに貢献できるかもしれない。あるいは、多量の視覚と感覚と少量の言語で自然科学の果たした発見を”語り直す”ことができるのかもしれない。

以上、これらの説明は忘れ、自由に感覚してみてください。得たものがあれば幸いです。