白い空間に、複数の赤い花冠がわずかにうごめく映像、同様に白い花冠がわずかにうごめく映像、がそれぞれ壁面にプロジェクタから投影され、床面にはわずかに風に震える樹冠の一部をクローズアップにした映像がフラットモニタに映っている。それらはループ再生している。
これまで自分の現実感に関係を持つと思われる事柄を、日々の生活の中で印象に残った像を記録し、展示の形にまとめる過程で考察を深めてきたが、ここでこの試みを”基視学”と呼び、体系づけることを始めたいと思う。基視学は視覚に基づく学と書くとおり、主体が視覚により捉えた像を自らの感性でもって反省を深めることによって見出した真理を記述し体系化していくものである。このとき記述と反省は像(イメージ)と補助的に用いられるテキストにより行われる。これは、かつて古代ギリシャ期にすべての学問を統べるものとしてあった”哲学”に代替すること、また西洋圏の知の遺産に日本的知を結合すること、をその射程に入れるものである。
風が渡る樹木の引き起こす(美的)快にはいつ何時も心を奪われる。これはどういうことなのだろうか。非常に多くの要素が一定の規則に従っており、かつ1つの個体としてある。それは縦横奥行きの3方向をもつものである。要素とは主に色を伴った面(葉)とそれらを接続している線(枝)から成る。動きに没入するとそれを物と捉えがちだが、鳥が出入りするのを見たり、あるいは自ら近づいてみるとそこに空間があることに気づかされる。
愛でる対象としての花は、たいがい細い茎の上にそれに見合わない大きさの花冠が水平方向に開いている形で、かつある程度群れて在る。上から眺めるとまるで浮いているようで(美的)快がある。この浮遊感は樹木の場合の風の揺れにかわるものとしてある。ここにはまた一定の規則に従う複数の要素が見いだせる。この場合はどこを向いているかという方向の要素が大きな差異の要素を占める。
面や空間や周期というものをどういうこととして受け止めているのか。あるいは、便宜上面や空間や周期と呼んできた概念は実際どのような経験/感覚と引き合うのか。引き続き考察したい。