604号室 / 非表象宣言

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非表象主義(non-representational theory)という理論がある。1960年代のオプティカルアートに端を発した概念で、2000年代に入って発達した、ジェスチャーなど身体の持つ情報伝達能力に焦点をあてた実践的な理論である。そこでは表象として現れたものがその対象となるのではなく、表象以前の経験される中でわかっていくことが対象となる。

イメージがはたしてきた役割を考えるとき、西洋圏における美術史は表象の歴史といえる。神話、宗教の教義、何かを象徴し、意味を伝達するものとしてのイメージが、権威を欲する人、救いを欲する人、なんらかの道具として生み出されてきた。

ひるがえって東洋圏における特に日本におけるイメージの役割を考えるとき、それは何かを象徴する、表象する、意味をもたされるものとしてよりも、表象されえないものを、目に見える、花鳥風月といった現象を強く受容し、多彩で豊かで濃密な模様としてよく機能させてきたように思われる。非常に顕著な例として着物があげられる。これらは公的に機能するイメージとしてではなく、個々に消費されるものとして扱われ、表象としての”美術”の文脈で扱われることは少ない。

この日本的な感覚は公的に機能するイメージ、足りえないだろうか。表象としてのイメージは権威と近しい。一方、わたしが非表象と呼ぶ日本的な感覚は、個人に集約される。ひたすらに個人が感覚を(美的感覚に限定されない)鍛錬する、そこには受容ー客体ーと表現ー主体ー双方が含まれる。そのとき、数学が厳密であるのと同程度の厳密さがそこにはある。その個人的な鍛錬の一部が美術という1つの共同体に提出されるとき、そのイメージは非表象でありながら公的に機能する部分を担いうる。それは、”資本”( 大量生産/消費による経験の搾取と被搾取への不安)を礎とした経済に” 個体”を対置する試みである。

村上隆はこの日本的な感覚を”スーパーフラット”と呼び、アニメのイメージをモチーフとして伝統的な表現形式である”絵画”と”彫刻”を制作し、”美術”の分野に持ち込むことに成功したといえる。わたしはそれを非表象と呼び、モチーフとして花鳥風月を扱い、インスタレーションという形で”美術”の文脈で提供するものである。