この度谷中ホテルでは、302号室を開室してビデオインスタレーションを展示します。これは、3つのテレビモニターと1つの裸電球で構成されます。3つのモニターのうち、1つには緑が揺れる映像が写り、1つには蝶々のぬいぐるみのようなものが揺れる映像が写り、もう1つには何も映像が映りません。
これらの映像は、それがみつけられたその場で撮影されたもので、「その場で撮影された」ということが重要です。というのは、心が揺らされたその時その場で目にした具体的な像を考察したいからで、それはよくも悪くも後からこんなかんじだったなあと再構成したものとは大きく意味が異なります。私たちは物事をとても恣意的に見ていることを忘れがちで、と同時に像には出自があることも忘れがちです。
どちらの映像でも揺れが扱われています。今思うのは揺れ、というのは人を誘う要素があるのかもしれないな、ということです。宗教儀礼では体を揺することでトランスすることがよくあるし、見てると、子供や障害のある方なども自分の体を揺することで、視覚的/身体的快楽を得る節がみうけられます。
何かというと具体的なある「形」がとかく求められるし、求めてしまう。一方で、日々というのは、二度と目にすることができない、形をめぐる美しい瞬間の連続でもあります。「形」ということであれば、まだ説明されたことがないことに言葉を与えようとする試みは、それだけで強い満足感が伴います。「形」を見て/経験して自分の中に生じた何かに言葉を与えることと、形を与えることの違いとはどういうことなのだろうか..
以上、これらの事柄は何を意味するのか?現実感/リアリティをめぐる突破口は、このあたりにあるように思います。