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床に3つのモニターが上を向いて配置されている。それぞれのモニタには、パネルが1つ、これも床に垂直に配置されている。モニタとパネルには木々の様々な相が映っている。屏風状に組まれた4枚のパネルには、ポットの様々な相が映っている。

“時間”の扱いに慣れません。待ち合わせる、予定をたてる、という場合、一般的には何日の何時に、と決めます。しかしそれは、茶色くて木の手触りでひらたくて…という諸々の情報を「机」と名付けたとたんに、そういった情報は消え失せて簡単でわかりやすい「机」として日々処理してしまうことに似ています。関連して、間に合うように余裕を持って家を出る、前もって準備をする、ということを一般的にはします。しかし、仮に余ってしまった場合のその”時間”の存在は受け入れられるものでしょうか。そんなふうに扱ってよい、”時間”というものはほんとうに存在するのだろうか?

例えばネイティブ・アメリカンは皆で集まって何かをする際、開始時間を決めるということはせず、皆が概ね集まってじっとしており、皆が時が満ちたと思ったとき、おもむろにはじめるといいます。また相対性理論においては、時間の速さは、観測する人によりすべて異なるとしている、ということがあります。

さて、わたしはここでいくつかの像に目がとまったわけですが、実際の所は”何”を感知したのでしょうか。木の揺れは動きであり、ということはそこに時間の経過が含まれますし、注ぎ口と水面が接したまま固定する様(通常は注ぎ口から流れてゆく)は時間の停止といえるでしょう。

今回、謎に迫るべく、この任意の空間に感知した像(様相)を持ち込み、全体が落ち着きを得るところまで要素を絞り込み整理しました。引き続き追っていきたいと思います。
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床に3つのモニターが上を向いて配置されている。それぞれのモニタには、パネルが1つ、これも床に垂直に配置されている。モニタとパネルには木々の様々な相が映っている。屏風状に組まれた4枚のパネルには、ポットの様々な相が映っている。

普段から何かが気になり、それはつまり”何か”を感知したということですが、記録に残すことを目的としてその様を撮影しています。その際、何がポイントなのかを確かめながら撮ります。方向なのか、角度なのか、周囲との関係性なのか。いきおい枚数は増えます。

このポットは、すべて同じ時に撮影したものです。日本では古来、屏風や着物など、平面だけれど面じたいを動かすことによって空間を生み出しうる面に、図像を配置することを好んできました。今回、様々な様相のポットを面に再度配置したうえで面自体を動かし、強調されるものを探りました。

木の方は、静止画においては、感知した情報-たとえば形や質感-を強調することにより、みていることとみていないことの区別を試みました。動画においては、木の揺れる様のうち、その”時間”に手を加えることで要素の強調を試みました。静止画と動画を垂直に組み合わせて1つのユニットにして空間をつくり、”屏風”と共に空間に配置し、様相の接続を試みました。色の情報は不要なのでモノクロにしたうえで、無機質さを消すために軽く青く着色しています。

引き続き追っていきたいと思います。