Post from RICOH THETA. – Spherical Image – RICOH THETA
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水面に雨粒が落ち波紋が広がる。海、水、に、表面があるときづく。潮力が無数の形を生成するという相にくわえ、雨粒がその生成された表面にまた無数の徴を刻むという相があった。同じ位置で同じ方向を向いて続けて何回かシャッターを切る。海という存在は1つの全体だが、その1つの存在の部分が複数、異なる像として生じる。シャッターを切った時間は異なるので、個々の像は、実際には時空間を同じくする像ではないのだが、1つの閉じた実空間に並べると1つの全体を構成する部分の集合にみえる。時間こそ異なれ、個々の像は、実際には1つの同じ空間の像だが、実空間に無為に配置すると、複数の空間の像のように見える。今面として表現されている形とその表面はある1点の時の像であり、現実には今存在しない。(過去とは何か)
葉の塊がある。葉の形はおよそ同じだが一様ではなく、複数の葉から構成される個々のブロックはおよそ同じ形だが、一様ではない。ブロックの凝集が1つの茂みを構成する。
2度シャッターを切る。1枚を左右反転し、2枚を並べる。反転されたおよそ同じだが一様ではない複数の葉が構成する、およそ同じ形だが一様ではない複数のブロックが構成する茂みは、別の個体のように見え、並んだ2枚の像は、2つの個体のある、ある一つの空間の像のように感じる。実際にこの空間は存在しない。左の空間と右の空間では、時間が異なっており、方向をずらしてシャッターを切っているので写っている部分はわずかに異なる。
凝集する葉たち。
複数の花が1つの茂み全体に分散して咲く。花の形はおよそ同じだが、一様ではなく、およそ同じ方向を向いているが一様ではない。
2度シャッターを切る。1枚を左右反転し、2枚を並べる。反転されたおよそ同じだが、一様ではなく、およそ同じ方向でかつ反対を向いている複数の花を持つ茂みは、別の個体のように見え、並んだ2枚の像は、2つの個体のある、ある一つの空間の像のように感じる。実際にこの空間は存在しない。左の空間と右の空間では、時間が異なっており、方向をずらしてシャッターを切っているので写っている部分はわずかに異なる。
こちらを向いている花たち。
再び1枚を左右反転し、2枚を並べる。反転させた方を、もう1枚と接している線の下端の点を中心として左へ90度回転させる。新たに用意した左右反転させた1枚を再び並置した上で、像のたて方向を、現在の空間はもつが、像は持たない奥行きの方向と置換する。こうした3枚で構成される構造は、反転に加えて回転したものが1つ、反転に加えて軸を置換したものが1つ、何も操作していないものが1つ。この構造の次元はいくつか。
砂の上にものが散在する空間がある。どこを切り取るという意図を持たず任意にシャッターを切る。向きを変え再び切る。
砂面という存在は1つだが、その1つの存在の部分が複数、異なる像として生じる。シャッターを切った時間は異なるので、個々の像は、実際には時空間を同じくする像ではないのだが、1つの閉じた実空間に並べると1つの全体を構成する連続した部分の集合にみえる。像の縦横を置換する。連続する小さなもの。
水面、砂面、庭木、いずれも面になにがしかが散在している像である。この点を強調するよう発色を調整した。
Constructed photoでは(場)面を構成し、それを撮影するが、本作は逆に、撮影し出力した面を構成した空間である。ある配置が特異にならないよう、”そうではない”状態を作っていった。
面。その反転の面。
異なる像の面とその反転の面。
同じ像の、面、回転が施されている反転の面、および軸の置換が施されている反転の面。
この空間を構成する壁面と平行に接続している面。この空間を構成する壁面と垂直に接続されている面。この空間を構成する壁面には接続されていない面。面に接続している面。
表。裏。
長辺で接する面。短辺で接する面。
90度で接する面。90度以外で接する面。
接する面が内表。接する面が外表。
反転して並置。回転して並置。
並置。散在。
3(補足)
このよさの正体が知りたいが、説得力のある言葉はまだない。
例えばバウムガルテンは美学を構想したが、感覚と美と認識について検討の余地があるように思える。
考察のために、構成された空間を提示する。
この営みはカントの認識の枠組みを使って一部は説明できるかもしれない。この空間(1)を構成する像の捕獲までが感性を用いた認識の第一段階と言える。2は、1を作る過程の思考を描写したもので悟性を用いた認識の第2段階に相当する(厳密には操作の記述も入っている)。
縦横高さの3つの方向で表現されることの多い実在の事物は、1次元少ない縦横の方向しか持たない像としても表現されうる。ここで像とは、個々の頭の中に生じているものではなく、実際に面の形をとって実在し、そこに別途実在における色も保持される。1次元つぶすことにより、客観と主観を超えて存在を扱おうとしているとも言える。
空間にいるときは連続してうめこまれているが、撮影すると光の強弱と波長の情報に変換され、出力すると自分に向かう面として非連続な/単体の像が表われる。これらを再びつなぐ。
ステレオグラム(立体写真)を目指したものではない。セザンヌは「人間に対し自然は奥行きにおいて存在する」といったが、奥行きが付加されることで印象の所在が浮かび上がる。対称性ーある変換に対して不変である性質を保つ形で変換を加えることで、作用素/元が何かを考察しようとした。
事象の記号的表象を目的とするものではないのでここにある像を写真として単体で評価する意義は低いだろう。科学的な事実を引き出すことを目的としないので実験心理学ではなく、概念形成を念頭におくので、視覚という機能の解明を目指す錯視研究等は扱わない。言説分析を目的としないので分析美学ではない。
写すものの選択には、美術史・写真史等の文脈からの意図はない。何か印象を残す対象に向けて(直観)シャッターをきる。意識してフレーミングすることは避ける。
身体を用いるので、身辺の事物を対象とする。人工物は、容易に概念を示唆するため、概念化されていない事物を含む可能性を持つ自然物全般を対象とする。
これ以外に規定していない要因は持ち込まないものとする。
現在は、以下の2点の特徴がある;
像が実在を感じることができる程度に高い表現力をもつこと、およびそれを実現する装置が比較的廉価で量産されていて誰にでも手に入りやすい。これにより、特権性を伴わずに、実際の存在を、記号/概念としての実在の複製ではなく、経験を伴う実在として、ただしあくまでも面として存在させることができる。
多様性が行き渡り相対化の極みとなった。それゆえに、セザンヌ/カントの参照もまた、アナクロニズムとしてではなく、等しく一つの選択肢として意義を持ちうる(あるいは等しく意義を失う)。
意義を失うのではなく得るとする根拠はここでは述べない。
この特徴により、知や権力の関係から逃れて感覚/思考する土壌を生成しうると思われる。ここで目指されるものは事実ではないが、事実と同等に重要なものである。それは個別経験を扱いながら形式性を持つという点で普遍的で、美という概念を経験から捉えかえすメタ美学の試みとも言えるのかもしれない。