105号室 / 魅惑

Post from RICOH THETA. – Spherical Image – RICOH THETA

Oct 5 – 22, 2019

ある夏、沖縄の北のほうに少し滞在した。夕方になろうかという頃、土地の人に勧められた川に出かけた。「水が綺麗で小魚や小エビがいるのが見えますよ。」
車を止めて斜面を降りると岩と木々、ぬるい水があった。とても静かで、陽光が降り注ぐ綺麗なところだった。綺麗というのは、その場にあるすべてのものが最適な形で稼働しているように感じられる。澱みや病んだ部分が見当たらない、という意味で。
川底は浅かったり、深かったりしたし、水の通り道も幅広かったりごく狭かったりした。一通り岩から飛び降りたり水面に浮いたり水流を追ったり潜ったりした後、カメラを持って移動しながら私の眼に映るものを記録していった。

記録には、突出しているように見える部分がある。しかしその突出性が属する実体はどのように他と区分したらよいのか。オブジェクトは常に連続した1つのものとしてそこにあるが、境界を設けて分断し境界外のものを無視することで境界内のものから意味や意義や法則を見出すことが可能になる。
カメラで撮影するということ自体、すでにそこにある領域に境界を設ける行為であるが、眼に映るものを記録した像には特に必要も目的もない。ただ、何か突出しているように見える箇所があるように思われる。しかしその突出性と他とを区分する客観的な指針や身体的な慣習はない。その突出性に含むべきは単数なのか複数なのか?実体としての突出性なのか水面に映る突出性なのか水中に沈んでいる突出性なのか?直観で突出性を把握し、その突出性の要請から推論し、境界を決定した。

色によって明示される情報は不要に思われたので情報としての色は削除したが、色がないことは要請されていないように思われたため一様に色を加えた。取り出した突出性を反転させ、複製を作成し、取り出した突出性と垂直・水平に布置した。そこには擬似空間が現れるように思われる。あるいはまた、撮影の際オブジェクトのある部分を切り取った像に、異なる切り取った像を接続すると、連続した1つの擬似空間が現れるように思わる。
ある擬似空間に、異なる擬似空間を並置することにより、この突出性の正体が多少なりとも暗示されるように思われる。

そしてこの突出性の正体とは、哲学で名指すところの”実在”ではないかと思われる。科学をも含む哲学という方法は本来、言語を方法として用いる以上、実在には触れられないということは明示できても実在そのものを扱うことはできない。しかしながら人間はこのような実在を常に感じながら生きてゆくことが本来の姿であるように思われる。2019年現在および今後における芸術の本分とは、芸術に固有の方法によって、なんらか実在の社会実装を促進するものであると考える。