201号室 / 意味の彼岸

room201_3こんにちは、坪井です。この度谷中ホテルでは、201号室を開室し、木、映像、キャンバス、マインドマップ、模様、ライト、テキスト、サウンドで構成されたインスタレーション作品を展示します。ぜひともご自身の感覚に浸っていただき、それがどんなことでも何か反応があるようでしたら聞かせていただけますと、私自身にとってよい頭のマッサージになり、大変刺激になります。よろしくお願いいたします。

私は世界を受け取りたいという欲求が強くありますが、それはまた、今の自分の限界を超えたいという欲求でもあります。そこで、なるべく自分をぼんやりした状態において日常を微細に見ていくことをしますと、すると随分面白いことがあります。そういった事象は記録します。断片でいて、意味が生じていません。それぞれを作品へ、という流れにいきたいところですがなかなかそうなってくれません。自分の中では、全部を一度に扱いたいという欲求が強いのです。

ところで茶道具をほめる言葉で「よい景色がでている」というのがあります。このとき景色とはにじみ出ているおもむきをさしています。美術作品をみて「よかった」と言う場合の多くは、やはりそういった景色を見て取れたことを指すのではないでしょうか。
ここで私が考えているのは、そういった景色でなく、明解な調和でなく、さらには意味でもない、にもかかわらず、なんらかのまとまりを送受するということが、美術という領域では達成されているのではないか?ということです。何かを記述し考察し伝承していく方法とその成果について過去の例を挙げてみますと、西洋哲学、錬金術、呪術、瞑想、芸事、情報技術の展開、カオス理論..様々です。美術を1つの方法として考えてみますと、よく挙げられるのはひたすらにひらめきが降りてくるのを待つという方法ですが、それは実は断片と微細さとイメージによる思考と言い換えることができないでしょうか。私たちの生活は今、歴史上例を見ない程高度に洗練され構築された時空間に立脚しています。その中で、この方法には、例えば現在宗教やドラッグがカバーしている領域を担うとともに、生産性を伴う方法である可能性が潜在しているように思えてなりません。

というわけで、今回は全部を一度に扱ってみたところの私の’美術作品’は、このような抽出形態にあいなりました。少しなりともなぜだかはわからないけれどなにかが結びついてしまって体がゾクゾクしてしまう、というような効果があれば幸いです。では、また日々精進してまいります。